154 – 参 – 憲法調査会 – 6号 平成14年05月08日
平成十四年五月八日(水曜日)
午後一時一分開会
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委員の異動
四月二十五日
辞任 補欠選任
福島 瑞穂君 大脇 雅子君
五月八日
辞任 補欠選任
大脇 雅子君 又市 征治君
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出席者は左のとおり。
会 長 上杉 光弘君
幹 事
市川 一朗君
加藤 紀文君
谷川 秀善君
野沢 太三君
江田 五月君
高橋 千秋君
魚住裕一郎君
小泉 親司君
平野 貞夫君
委 員
愛知 治郎君
荒井 正吾君
木村 仁君
近藤 剛君
斉藤 滋宣君
陣内 孝雄君
世耕 弘成君
中島 啓雄君
松田 岩夫君
松山 政司君
大塚 耕平君
川橋 幸子君
北澤 俊美君
小林 元君
堀 利和君
松井 孝治君
柳田 稔君
高野 博師君
山口那津男君
宮本 岳志君
吉岡 吉典君
松岡滿壽男君
又市 征治君
事務局側
憲法調査会事務
局長 桐山 正敏君
参考人
京都大学大学院
法学研究科教授 初宿 正典君
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本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(基本的人権)
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<精神的自由の制限には「問題がある」>
ゴールデンウイークがありましたので、先生のこの御本もざっと読ませていただきました。大変勉強になったんですが、先生は、この本の三十一ページで「明治憲法の権利章典の特色」について触れておられます。明治憲法にも権利章典があったけれども、「限定列挙的な権利のカタログであって、日本国憲法の第十三条のような包括的・補助的な権利保障規定は存在しなかった」と、そして「不備な点が多かった。」とされております。また、法律の留保の問題、裁判的救済手段の欠如についても指摘をされております。
我が国における人権の歴史的展開を考えたときに、明治憲法と日本国憲法とでは質的な差異があると私も考えるわけですけれども、まず、先生のその点でのお考えをお聞かせ願えますか。
先ほどの明治憲法との対比の問題にもつながるわけですけれども、明治憲法が個別法で国民の権利と自由を制限することを許していたと。このことが例えば治安維持法などにも結び付く弱点となったのではないかと。これは私もそう考えるわけですけれども、日本国憲法の下で、現行憲法の下で、個別法で国民の権利と自由を制限するということは果たして許されるのかどうか、この点での先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
参考人(初宿正典君) やはり権利の、どの権利かによって話は違ってくるのだろうと思うんですね。
有事立法の問題は私も十分にまだ把握しておりませんので具体的なお話はしかねますけれども、例えばドイツなんかの場合でも、例えば居住の制限であるとか、あるいは所有権に関する制限であるとかということはあり得る、現在の基本法の下でも可能となっているんですね。
ただ、御存じのとおりですが、ワイマール憲法ではもっと広く、いわゆる精神的自由権と言われる領域についても、いつでもその全部又は一部の効力を停止するということが可能であったし、現にそういうことがなされていた経緯もあるわけです。そういう歴史を背景にして、ドイツでは、そういった表現の自由であるとか、あるいは言論の自由であるとか、宗教の自由であるとかについてはそういう制限はできないと。
個別に、先ほど申しましたようないわゆる経済的な自由権であったり、居住の権利、あるいは職業に関する権利については制限が可能だというような言い方をしているわけで、したがって、特に先ほどから申していますように、日本国憲法の場合は一般的にはそういう法律の留保条項はありませんので、法律で制限するというのは非常に問題があるわけなのですが、じゃ、すべてのこの憲法第三章の権利規定について法律で制限することが許されないかというと、そうは言えないだろうと思いますので、やはり個別に問題を考えていくほかはないだろうというふうに思いますが。
<「一般的」な人権の制限は許されない>
これで、三点、これについて聞きたいんですが、まず第一に、この公共の福祉というものに軍事的要素は入り得るのかと。つまり、軍事的な準備のためというものが公共の福祉のため、福祉のためにということに読み込めるのかどうか、これが第一です。
第二に、どの権利をどう制限するかの限定なしに、公共の福祉を理由に国民の権利を全体的に網を掛けて制限することが現行憲法の公共の福祉論として許されるのかどうか。
三つ目ですけれども、我が国の憲法、憲法の公共の福祉については、公共の福祉を理由にした基本的人権の制限は、国連の国際人権B規約委員会、人権委員会ですか、からも懸念を表明する最終意見書が日本政府あてに出されているというふうに私はお伺いしたんですが、もし、先生、この辺りのことも御存じでございましたら触れていただければありがたいと思います。
以上三点、お願いいたします。
第一点目は、非常に難しい問題だと思うのですが、だから軍事を公共の福祉と考えるかという問題を、だから公共の福祉という場合に、やはりそれによって社会の、社会的な様々な弊害いうことがこれに伴った形で出てくるときに、そういう意味ではかかわりがあるといえばあるのだろうと思いますけれども、余り軍事との関係で真剣にこの公共の福祉による制限ということについて考えてきたわけではないし、学界でもほとんどこの点については、今までそれほど真剣に議論してこなかった部分ではないかと思います。
第二点につきましては、先ほどの別の方の御質問にもお答えしたと思うのですが、最高裁も、昔の判例、例えばわいせつ物頒布罪に関するいわゆるチャタレー事件判決などでは、この公共の福祉というのが人権全体に網をかぶせるような制限の正当化原理として働き得るということを言っておりましたが、その後はこういう言い方はほとんど消えてしまっておりまして、したがいまして、公共の福祉の名の下に人権を制限できるという、そういう大ざっぱな議論は通用しないようになってきている。
ただ、特に憲法二十二条、二十九条に公共の福祉という言葉が出てくるのはやはりそれなりに憲法制定者の意図があったはずであり、その意味では、ほかの人権に比べてこの部分については制限の可能性というものが認められやすい、またそれが憲法に違反しないということになる可能性が強い部分であると。それに対して、そうでない部分についてはやはり非常に厳しく、この公共の福祉という名の下に制限することについては慎重であるべきだというように考えております。
次の質問ですが、先生は、この「憲法2」の百九十五ページなんですけれども、沈黙の自由ということについて述べておられます。憲法「第二十一条一項の表現の自由についても、内心における精神作用の結果を公表したくないときには、これを公表させられない自由としての「沈黙の自由」を含んでいると解される」と述べておられます。
例えば、戦争に際して国民に協力を義務付け、それに反した国民を処罰する法律を作るということは、戦争への協力はしたくないとの信条を持つ国民の内心の自由を侵すことになるのではないかという点が一点。また、そういう信条を持った国民は、協力を拒否するという行動によって自分の内心を表明しなければならなくなる。少なくとも沈黙の自由の侵害に当たることは明瞭だと私は考えますけれども、先生の御所見はいかがでしょうか。
したがいまして、そのときには前提として、やはり例えば兵役に就きたくない者はその就きたくない理由を表明しなくてはならない、これを表明すれば兵役が免除されて代役の方に回ると、こういう構造を取っているわけですので、やはり何かの国家的な義務が、少なくともドイツの場合でいうと兵役の義務に対してそれを拒否する場合に、その拒否するということを表明しなくてはその人が拒否する意思があるのかどうかということが分からないわけでありますから、当然それが求められるわけですね。
これは沈黙の自由に反するかというわけですが、日本国憲法ではこういう問題は今のところは発生しないと思いますが、二十一条との関連でいうと、確かに自分の表明したくないことを表明させられるということですが、それに伴って何らかの、つまり表明したくないことを表明したことによってその人に不利益が掛かってくるというふうなことは問題がありましょうが、何らかの義務を免れるためにその自分の内心を表明するということはやはり国民としてせざるを得ないだろうと思いますが。
先生はこの本の九十八ページで八幡製鉄政治献金事件判決に触れて、「自然人の権利と大企業の権利とを、同一の平面において論じている点については疑問がある。」とおっしゃっておられますね。今、企業も社会的存在なので献金するのも当然だという議論があるんですが、私どもは、やはり個人と、自然人と大企業とは区別すべきであって、企業に選挙権が認められていないように企業の献金というものは個人の献金とは明確に区別してやはり問題ありとすべきだと考えておりますけれども、この点について最後にお伺いして終わりたいと思います。